26歳の交換日記

1988年生まれのすみれとくみこの往復書簡

「すごくない」と冷静に見分ける力について。②または、司馬遼太郎など(すみれ)

ね、眠れない。。もう空が白みはじめ、一匹の蝉の鳴き声が5分前にはじまったところ。おはよう、蝉さん。

 

池袋の現場の花やペットボトルが昨日片付けられていたらしい。確かに、この炎天下じゃ腐ってしまうだろうけれど、それでもなんだか解せない。。くみちゃんと、3月に飲茶探したときなんかにあの辺うろうろしたよね。本当に、全然、わたしでもおかしくなかったのに、中国からわざわざ日本に来て勉強されていた方が犠牲になられた。

 

わたしは、あらゆることは必然性を伴い、たとえそれがわたしに、もしくはだれにも理解できないことであろうとも、きっと大きな宇宙の流れで見れば、起こるべくしたことだと思っているの。それによって「人にはいろんな事情がある」ことを実感して生きることができるようになった。わたしが目にしている光景のその向こう側に対して想像力が働くようになったと思っているの。

だけど、同時に考えている。貧困で骨ばかりになって横たわる子どもたち、国策や戦争で犠牲になる市民たち、食肉のために不自然に太らされて狭い小屋に押し込められて歩くこともできない鶏、動物実験の犠牲になるうさぎ、雷に打たれて死んだ人、そして今回のようになんの脈略もなく殺された命。

そういったものすべてを自分に対して思うのと同じく「きっと何かの意味がある」なんて誰が言えるかしら。もしくは、脱法ハーブを吸って、意識朦朧としたまま車に乗り込んで何の関係もない人を殺した人間に必然はあるのか。

恣意的に社会的な善悪の基準を無にして、宇宙の不思議を考えるとき、「かわいそう」で片付けられない暗い深淵に立ち会う。それでもわたしには何一つわからないから、ただ悲しくて、自分自身の生存に対する罪悪感が消えることはない。

 

くみちゃんの「すごくない」論、すごくわかる。本当に、その通りだと思う。

政治家だからすごい、偉い人が言ってるから「なんとなくこれはきっと正しい」そういう共同幻想が社会を動かしているの。ほんとに。危険なこと。外国に住んだことはないからはっきりとは言えないけど、特に、日本はそれが顕著な気がする。俗に言う、「お上にはさからえない」つてやつか。

話がそれるようだけど、わたしは、芝居を通して「思い込み」現象に気づいていった部分が大きい。

5年前、俳優養成所に行きはじめた頃は、「映画作ってる」とか言われるだけで感動して、尊敬すべき人なんだと思ってた。テレビや映画に出てる俳優なんて常に雲の上の存在で当然のように「自分なんかよりもう何十倍もすごい人」って思ってた。「なんかちがうかも」って思い始めてからも、それでもやっぱり有名劇団の人ってだけで「いいなあ、ああいう人は自分とはちがう」っていう見方からなかなか脱せなかったし、少しでも名前のある劇団とかに所属することが自分を「格上げ」する方法だという思い込みは強かったの。特に、演劇界ってそういう変な縦社会的な性質強いからね。。。演出家は神だし!そもそも演技って、人間が人間を演じるわけだから、他の芸術と比べてはっきりと差が出ないからこそ、そういう「なんとなくすごい」っていうのが幅を利かせるというのもあるし。

だけどさ、いろんな芝居を観たり、いろんな演劇人たちを見ていく中でだんだんわかってきたのね。べつに演技がうまいから芸能人になれるわけじゃないし、その逆もまたしかり。結局人が、「この人見たい!」ってなる根拠って、その人の露出度だったりするわけじゃない。山手線でもテレビでも映画でも駅でもどこでも目にするから、その人を生で見ると「ああ素晴らしい!今日、チョーラッキー」ってことになるわけじゃない。チケット代一万円出しても見に行こうってことになるわけじゃない。それに以前は四十代五十代とかでも芝居続けたり、なんか芸術的なことにうちこんでいる人を単純に「すげえ…」っていう目で見たけど、その人は単に仕事としてというか、時の必然のなかでそういう生き方を「選んだ」だけで、その人が世のサラリーマンに比べて高尚な精神を持ってるかっていったら必ずしもそんなことないのよね。

もちろん彼らの努力や実力を否定するわけじゃないんだけど、その世界を知る前の自分の思い込み激しさのせいもあって、「あらら、こういうもんだったの!」っていう衝撃が大きかったんだよね。映像文化(マスコミ)がなかった時代はまた違ったとも思うけど。

政治家だから、日本のことを必死で考えている賢人にちがいない。企業のトップだから頭がよくて人間的にも一般人より「えらい」んだろう。たくさんテレビに出てるから人気者なんだろう、などなど。。

 

何かを否定しようってわけじゃないの、ただ、「この人は、こういう生き方を選んだ」ただそれだけの事実を、忘れてしまって考えることを放棄すべきじゃないと常々思うの。

 

それから、私立の小学校の話。わたし、小中の一時期、けっこう生活レベルが低い人たちが多い地域にいて、シングルは当たり前、同じ服毎日着てる子もけっこういたし、DVの父親をもった友だちの夜逃げを手伝ったこともあったの。

そのころの友達とは今はひとりも連絡とってないけど、おそらくわたしが淡く恋してた男の子なんかは今頃きっと土木業かなんかやってるだろうし、あの土地でシングルマザーやってる子とかもけっこういるのかなと思ったりする。

くみちゃんの文章を読んでいて思ったの。あの時間に、「ああいろんな事情があるんだ」ということを肌で知ったことが、おそらく今のわたしに大きく影響してるだろうって。

湯浅誠さんの『どんとこい、貧困!』に書かれていた人それぞれ「溜め」の大きさが違うということを肌で理解できたのは、あの場所で経験したことによる部分も大きい。変な格好したり、授業中暴れることで偉ぶったり、人を差別するような言いかたをする人とかいて、本当やんなること多かったけど。。田舎のほうがそういう陰湿な部分あるよね。。

 

私立小学校行くって、いろんな事情があるにせよ、やっぱり疑問だね。「せめて小学生のうちは」って思うよね。

 

昨日はひたすらそんなことを考えながら夏帆ちゃん主演の『天然コケッコー』を夜ひとりでぼんやり見ていました。漫画がおもしろいらしくて読みたかったんだけど、見つからなかったのでひとまず映画。フランス映画みたいに淡々と田舎での生活が流れていくから、なんだかぼんやりしちゃって、途中お茶沸かしたり、トイレ行ったり、一年生の女の子役の子がかわいすぎてなんか突発的に泣いたり、一時停止ボタン押したはずが電源消しちゃったり、ごちゃごちゃしながら見てたら二時間の映画が三時間経っても終わらなくて「一体いつまでつづくんだろう…」なんて思ったけど、とはいえふと怖さや共感を覚えるシーンもあったりしてなかなかいい映画でした。わりと好き。こういう感じ。

 

映画見終わったらちょうどEテレの「戦後史検証プロジェクト・日本人は何を考えてきたのか」がはじまるタイミングで、見たよ。司馬遼太郎。おもしろかった。

これまた考えることが沢山あった。

 

だけどあまりに長くなっちゃうから、今日の「すごくない」に関連して思ったことひとつ書くね。

司馬遼太郎は自身の歴史観を「司馬史観」と呼ばれたりすることに対して「自分は本当に自由にものを考えているだけだからそのようにとらえらえるのは心外」というようなことを言っていたとあったよね。

本当に、作家の視点から見ればそうなんだろうと思ったの。作家は、究極的には書きたいことを書いているだけでしょう、きっと。

だから、司馬遼太郎の作品と史実がどの程度合致しているか、とかは、読者それぞれがもし興味があれば知る努力をすればいい。「司馬遼太郎坂本竜馬をこのような人物として書いた。彼は、そう思った。自分は、どう思うか」ってことを考えるべきでしょう。作家に正誤を問うのはちがうでしょう。

でも、実際は「司馬先生がこう言っていた」ってことが先行していって、ときとして「自虐史観をいきわたらせた」とかいう批判になったりする。「すごい」人が「間違った」りすると、怒ったりする。

 

なんだかな。

 

そういえば、わたし、子どもの頃自分がいつか人を殺すんじゃないかってことに無性におびえてた時期あったな。

なんてことを思い出した。

 

もう朝。

いま、一気に蝉の大合唱がはじまったわ。