26歳の交換日記

1988年生まれのすみれとくみこの往復書簡

自由って。(すみれ)

わーお。

交換日記一日目だよ☆交換日記なんてやるの何年ぶりだ!?小学生のとき以来だなー。うーん。小学生のとき、交換日記上で大喧嘩して「ライちゃん(当時のわたしの秘密のアダナw校庭に咲いてたライラックからとったww)は、人を自由にしてくれない!」って書かれて、わたしそれを家のトイレの便器の上で読んで、思いっきりノートをドアに投げつけたこと、思い出すよ。当時私は9歳だったわ。

この日記はそんな炎上しないことを願いますわよ、ええ。

 

さっそく一日目なのになんとなく重たいタイトルをつけてしまったわ。

しかしよく考えることなの。自由って。

自由ってなに。

お金?

旅?

だれにも束縛されないこと?

破壊→創造→破壊?

 

まずはなんといってもお金だね。

今日もくみちゃんとわたしの家の近くで安い物件を探したよね。やっぱりお金は大切だよね。わたし、彼氏の財力で、こんな一軒家に山手線沿線沿いに住んでるわけだから、「お金ない」とか言いづらいんだけどね。笑 だけど実際にわたしはお金がない。より正確にいうと、自分の意志で、自分が好きなように使えるお金がない。

だけどね、お金があったらどうするんだろう。

海外の美大に行くかしら。世界一周するかしら。

どちらもわたしの密かな憧れだけれども、でもそんなことしている間に年はとるんだよね。どれだけお金を積んでも、時のあゆみばかりは誰にも止められないものね。

 

自由でいなさい、みたいな言葉にぶつかると、今の居場所にとどまってはいけない、今あるものをぶち壊して泣きながら走り抜けなくちゃいけない、なんかつい半年前まではそんな気がしていつもグラグライライラしていたの。

たとえばわたしは彼氏と住んでいてね、その彼はわたしより18歳も年上なわけ。今日くみちゃんが「くさなぎクンに似てる」とか言ってくれたけど、まあ事実44歳なわけね。だから当然、なんていうか、考えることが同世代の人と付き合うより違ってくると思うのね。結婚したらやっぱり子供も早く生まないといけないのかな、とか、わたしが「あれやりたい」「これやめてやっぱりこっちやりたい」とか言うのが彼には理解しがたいんだなとか、思ったときなんか苦しくて、不自由で、今ある大切なものを全部パソコンのデリートキーで消去して、わたしは蝶のように遠くまで飛んでいって黒パンかじって屋根裏暮らししながら女優やりたい……チェーホフの『かもめ』のニーナのように。とか思ってた。収入だって、今はあるけれどその分先は短くなっているわけで。わたしは子どものころからひたすらどこかに行きたい、だれかと出会いたい、自由でいたい、それだけだったのに、なんだか柔らかくとらわれていくような気がしてた。

それが半年前に大喧嘩して別れる寸前までいったとき、「ああ自由っていうのは自分の心の問題で、環境のせいでもなければ、だれのせいでもないんだ」って思った。一番身近な人は自分の鏡だからこそ、そこに原因を押し付けてしまう自分のおろかさに気がついた。

数年前(わたしがTくんの家に入り浸っていたころね)頭がおかしくなりそうで、なんとかしたくてインドに行けばいい、とか思ったけど、そのときも「どこまで行っても自分自身からはのがれられないんだ」って思ったことを、覚えてる。

 

だけどさ、どうなんだろうね。子育てとか、親の介護とか、借金とか、いろんなこと全部経験して、それでも同じこと言えるのかな、わたし。

 

26歳って、「キャーやばーい、もう完全アラサ―じゃーん!」とか黄色い声で言う年頃だけど、なんだかんだまだ若くて、なんにも背負ってなくて、社会的に見てものすごく自由なお年頃だものね。未来のわたしが見たら、巣鴨商店街にたむろしてるおばちゃんやおばあちゃんが見たら、鼻で笑っちゃうようなこと、わたし、いま書いてますか?

 

明日からまた仕事だね。

くみちゃんの仕事が少しでもいい方向に進んで行きますように、ね。

くみちゃんの中にある広大なサムシングが、つぶされないように、ね。

 

今日は遠いところ来てくれてありがとうね。塩羊羹、なんか買ってもらっちゃってごめんね……。しかも一緒に食べなかったし!!今度は手ぶらでお風呂入りに来てねー!!まじで!くさなぎクン似のMも、貴女のことを「おきれいね」と言ってたわ。

 

おやすみなさーい。

 

すみれ

 

ps.ところで、こんなかんじでオッケーかしら??

 

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と、ここまで書いて、わたしはくみちゃんに「書いたぜよ」とラインして、お風呂に入ったんだけど、結局わたしが思う「自由」ってなんなのかちゃんと書いてなかったなーと風呂桶につかりながら気がついてしまったわ。

 

2014年7月14日am1:00にお風呂の中でわたしが思った自由とは

 

いま自分が置かれている環境とか周りにいる人とかすべてひっくるめて自分が選んだってことを認めてから顔をあげること

 

以上。

まあ、要するに精神論ってわけだね。

これは、わたしの人生の過程における仮定だから、今後どんどん変わっていくかもしれない。たとえば、国の方針とかにも左右されるかもしれない。

もしくは、ずっとかわらないかもしれない。

 

とにかくここ数か月は、そう思えることでだいぶ自由になれた気がするのよ。