26歳の交換日記

1988年生まれのすみれとくみこの往復書簡

めんどくささよ、こんにちは。(すみれ)

交換日記を初めてから、胸のなかにいつも書きたい言葉がポップコーンのように踊っているんだけど、いざページをひらいたときに自分がなにを打ち込むのか、その瞬間までわからないの。

不思議だね。

この日記、先週まで影も形もなかったのに、それでも今では、心の救いのように思えるところもあって、なんていうか、帰る場所、てきな。けどひとりじゃないからこそのドキドキもあって、意外な心地よさに驚いているの。


くみちゃんが書いていた、「面倒くさい」について、いろいろ思ってみて、最初はね、面倒くさいっていう感情の下にもっとなにかあるのかなあ、とか思ったの。
感情を伝えることって、相手にボールをわたすことで、でもそれが受け取ってもらえなかったりなんか勝手にカタチ変えられたりするのが悲しいから自分のなかで完結させるってこともあるのかなーとか。
もしくはただ何かに返事したりするのがわずらわしいくらいの自由を望んでいるとか。
わたしがちゃんと伝えるときってどういうときかな、て考えてみたら自分が相手に認めてほしいから先手をうって「貴女が好き」って伝えていることもあるよなとか。
田舎の人間関係の面倒くささは、またちょっと質が違うんだろうけど、想像しただけで怖気が走るな。
田舎暮らしにあこがれはあるけど、不便さよりなによりそれが一番こわいもの。
わたしはいままで何度か引っ越ししてきたけど、基本都会に住んできたし転校したりしたせいで昔からの友だちもほとんどいないし、でもそれが心地よいのよね。
昔のわたしを知る人がまわりにいないっていうことが。
くみちゃんと「田舎らしい密接な人間関係」って、かなり遠い感じだもの。。
本当に大変なもんやったんやろなと思いつつ、今グーグルで「田舎 人間関係」っていれたら、いっぱつで「田舎 人間関係 うざい」って出てきたよ。笑



演劇のワークショップで感情の解放やってたときは「めんどくさい!」の下には必ずもっと具体的な感情があるといわれたな。
英語では「めんどくさい」にドンピシャな言葉ってないんだって。
でも、いい言葉だと思うわ。ワビ、サビ的に。余白を許してくれる言葉。



くみちゃんの話とはちょっとちがうけど、
わたしが常々面倒だなあと感じる無数のことからひとつあげると、好きだけど、残念ながらなかなか分かり合えない人と話すこと(特に、一対一ではなく大勢で)と、それに対する自分の向き合い方?って言ったらいいのかしら。。

楽しみにしていくの。顔を見られるのが素直に嬉しくて、ワクワクしてて、服も前々から「あれ着ていこうかなあ」なんて考えたりしてね。
ところがいざ、向かい合って笑顔つきあわせてみると「なんでこんなこと話してんだろ」って思っている自分がいるの。
自分の中にこんなにもたくさんの思いや考えがあるはずなのに、話したくもないこと話したり、相手の価値観になんとなく沿った衣をはおらせた言葉を選んでみたり、本当にがっかりする。


ところが、時間がたっていくと、また会いたいなあ、とか思うわけ。好きだから。
けど好きだからこそ、わかってもらえないことに疲れてしまうの。わかってもらえない、とか思う自分を忘れられないことにも疲れるの。それでもやっぱり、会いたいって思うの。


そんなことを何度も何度も繰り返してきた自分を思い出していたら
生きるっていうのは面倒くさいものなんだって、
その下の感情うんぬんをすっとばして認めちゃったほうが楽なのかなって
数年前のマクドでコーヒー飲みながら思った。

わたしはあるときから「人はめったに人に本音を話さない」と思うようになって、というかその厳然たる事実に気がついて、だからこそ、本音と口に出す言葉のまわりにある余白を大事にできる気がしたことがあるんだけど、なんかそれに近い感覚。


ああ、いっぱい書いちゃった。

わかる人にはわかる。

きっとそれだけなのね。